雨が続きますね。梅雨の最中ですからこれが通常運転というところなのでしょうが、今年は新型コロナウィルスのうえに各地で豪雨災害のニュースや土砂災害警戒など何とも落ち着かない毎日をお過ごしかと思います。

こんなときだからできるのですが、ホームページの利用状況をチェックしています。相変わらずネクタイのページの利用が多く、天文現象や月、暦関連があるときには天文情報のアクセスが増えるというのが現状です。検索エンジンかから、わりと的確に利用いただいていることがわかりました。あらためて考えてみると理想的な利用状況だと思いました。

その中でネクタイに次いで毎日数十件(今まででのべ1万件以上!)のアクセスがコンスタンスにあるのが「おとめ座「スピカ」、「真珠星」の話。和名の真実と背景」なのです。おそらく「真珠星」というワードからかな?と思うのですがひとつのエッセイ、読み物にもなっています。こんな読み物もあっていいのかな?ということで書いてみようと思います。あ、これは天体の話ではありません!

祖父は呉鎮守府の料理人

私の母方の祖父は戦時中、呉でコックとして働いていたいわゆる「軍属」です。私の関係はちょっと複雑でして、母方の祖父であると同時に私の「養父」でもあった人です。もちろん血縁関係の実父もいますが関係ははるかに深い人で、私の人格形成に多大な影響を与えた人でもあります。養父となったことでこれまた複雑なことですが、私の「義理の兄弟」は叔父と叔母ということになり、実際兄、姉として暮らし育てられました。祖父母は生まれたばかりの子どもを二人亡くしており、長男も南方(ビルマ)で戦死していますので子どもを失うつらさを身に染みて体験しており、当時2歳の私を引き取って育てることにしたそうです。

祖父の料理人としての「腕前」はというと、戦時中は海軍の厨房で働いていたものの、戦後は有名ホテルのレストランや大阪ではいまでも人形が有名な「くいだおれ」の総料理長、そして晩年は大阪ミナミにあった超高級会員制レストラン「六番」の料理長を務めました。本来はフランス料理(洋食)だったのですが、海軍の厨房であったこともあるからでしょう。和食から中華もろもろ何でもこなす料理人でした。レパートリーも広く腕前も関西一と言っても言い過ぎではない人でした。

今では「六番」もマダムも高齢でとうの昔に閉店してしまい、当時は「グルメ番組」のようなものや雑誌などはなく、面影を残すものはなくなってしまいましたが、料理人としての腕前は旧海軍時代も知られていたようで、主に士官の方の訪れる食堂に勤務し、洋食の必要がある時には別の場所にも呼ばれていたそうです。「六番」にも旧海軍出身の名士の方々が訪れてこられたようです。

この戦時中の様子を今となってはもっと聞いておけばよかったなと後悔するのですが、祖父はあまり戦時中のことを話しに出さなかったのです。戦争では息子を失うという悲劇もあったからでしょうが、もともと饒舌な人ではなく、私が空母(航空母艦)のプラモデルを作っているときに「この艦に乗っていた誰それはいかにも提督らしい人だった」とか「この艦に乗っていた誰それはとても親切な人であった」とその艦に乗っていた士官、艦長、司令官の人柄をぽつぽつと話してくれた程度でした。また艦のイメージも話してもらうときがあり、戦艦(軍艦)「大和」などは呉の港が狭く感じるくらい大きかったそうです。また「大和」を建造しているときは、建造を隠しておくため通勤で使う呉線の窓が全部閉められてしまったので暑くてかなわんかったそうです。開けようにも憲兵さんの目が光っていたのでどうしようもなかったそうです。後にそれが「大和」建造のためであったと気づいたそうです。そんな断片的な話は聞かされていました。

「見敵必殺の猛将」角田覚治氏はどのような方だったのか

「見敵必殺の猛将」というのが角田覚治氏を評してよく言われます。おそらくこれは南太平洋海戦のときの奮闘から言われている評価だと思います。空母「隼鷹」を敵に向かって全速力で進める姿はまさに猛将と言ったところでしょうか。これだけ聞くと怖そうな人かな?鬼人のようないかめしい人かな?とすら思えます。

しかし、私が空母「隼鷹」のプラモデルを作りながら聞いた祖父の話では、「この隼鷹に乗ってた角田覚治さんは腰の低い真面目な人で、料理を出したら「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げてくださるとても親切な人だった」というものでした。海軍の方々にとって食事は唯一の楽しみであり楽しく過ごせるひと時であったということですから、戦闘時と違った一面だったと思いますが、それにしても猛将とはほど遠いお人柄だったようです。これは角田覚治氏の最期となるテニアン島での玉砕のとき、民間人には「あなた方は軍人ではないのですから玉砕しなければならないということはないのですよ」と語った逸話からも感じられるお人柄かなと思います。

この相反するような姿はPHP文庫「角田覚治」松田十刻著を読んだときになるほどと思いました。戦場での勇猛な面と部下思いで家庭でもお子様には優しくよき夫であったという家庭人の面もあったと書いてありました。

空母「隼鷹」と「角田覚治氏」

角田覚治氏が「猛将」と評されるのは1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦から4か月後の1942年(昭和17年)10月26日に発生した南太平洋海戦での空母「隼鷹」での活躍が最も大きいからでしょう。

角田覚治氏が座乗していた空母「隼鷹」はもともと空母として建造された艦ではなく、日本郵船の貨客船「橿原丸」として1939年(昭和14年)に三菱長崎造船所で建造が始まります。同時期、同造船所では戦艦「武蔵」も建造されていました。「橿原丸」は建造されれば全長220メートル、総トン数27,000トン以上という空前の大型高速豪華貨客船となるはずだったのです。しかし建造が始まったのは太平洋戦争も目前に迫った時期で、「橿原丸」は姉妹船の「出雲丸(のちの空母「飛鷹」)」とともに、有事の際は海軍が空母として改造、利用することが条件となっていました。そしてその「有事」は決定し、1941年(昭和16年)1月には海軍に買収が決定し、完成を待たずして空母として改装されることになるのです。貨客船として建造が始まった「橿原丸」は1942年(昭和17年)5月に特設航空母艦(なので「軍艦」ではない)「隼鷹」として竣工(完成)します。それと同時に角田覚治指令の第四航空戦隊に編入となります。

貨客船としては25ノット以上という高速で、船体も大きかった橿原丸ですが、空母(軍艦)としては速度が30ノット以下と遅く、船体の防御力も低かったのです。それでも先のミッドウェー海戦で日本海軍が空母4隻を失うという大敗を喫して以降は貴重な戦力とされ、最前線で戦うことになったのです。1942年(昭和17年)7月、隼鷹は軍艦籍(駆逐艦、潜水艦などは「軍艦」ではない海軍所属の艦船)になり軍艦隼鷹(航空母艦隼鷹)となります。また配属は第二航空戦隊(角田覚治指令)となり、同月姉妹艦の飛鷹(元出雲丸)が竣工し編入されます。

祖父との接点もこのあたりでなかったのでは?と推測しています。空母隼鷹と空母飛鷹はともに改装空母としては大型で呉の港でもひときわ目立っていたそうです。また角田覚治氏とよく比較される小沢治三郎氏と談笑するようすもあったそうなのですが、この頃ではないかと思っているのですが確かなことはわかりません。またその接点が「先手必勝の空母対決」の用兵を「空母機動部隊の生みの親」である小沢治三郎氏から聞いていたのかもしれません。(このあたりは軍事通の方のほうがよくご存じだと思います。)

この後、空母隼鷹と角田覚治氏は南太平洋海戦で激しい戦闘を迎えます。

「隼鷹は必ず迎えに行く!」

南太平洋海戦は激戦地で有名な「ガダルカナル島」に日本軍が造営し、米軍が占領した「ヘンダーソン飛行場」をめぐる攻防戦によるものでした。角田覚治指令の第二航空戦隊は当初空母飛鷹を旗艦とし、近藤信竹中将の第二艦隊指揮下でヘンダーソン飛行場の攻略にあたるものとされていましたが飛鷹で機関が故障し速度が出なくなります。当時は現在のアメリカ空母のようにカタパルト(射出機)がなく、またあっても艦首を風上に向け、全速力で空母を走らせてその向かい風と飛行機の揚力で発進する必要がありました。速度が出ないと航空機を発艦させる能力、戦闘能力も失ってしまいます。角田覚治指令は旗艦を隼鷹に移して指揮をとることになりました。一方、敵の空母に対する機動部隊は南雲忠一中将(真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の指揮官として知られています。)の第三艦隊が空母翔鶴、空母瑞鶴、空母瑞鳳の第一航空戦隊を率いて行うとされていました。

日米双方がお互いの機動部隊を認識しての南太平洋海戦は1942年(昭和17年)10月26日に開戦されます。米海軍の空母は「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻です。早朝、両軍ともに艦載機を発進させ、第一航空戦隊は「ホーネット」に攻撃を集中、これを炎上させ、「エンタープライズ」にも損害を与えます。しかし日本側も空母瑞鳳が被弾して発着艦不能となり、続いて空母翔鶴も集中攻撃を受けて大破してしまいます。南雲忠一中将は航空隊の指揮権を第二航空戦隊の角田覚治少将に委ねます。

そのとき最も戦場から遠かったのは角田覚治少将指揮の空母隼鷹です。敵空母の位置は攻撃隊の行動範囲(飛んで戦って戻れる限界)の外。しかしこのときに角田覚治少将は攻撃隊を発艦させ、空母隼鷹を全速力で敵空母めがけて突撃させます。発進した攻撃隊を迎えに行くためです。空母としては遅いと言われた隼鷹のどこにそんな力があったのか、その姿は槍を持って敵に突っ込む騎馬武者のようだとも言われています。

「隼鷹は必ず迎えに行く!」

これは角田覚治少将の意を受けて当時の飛行長が隊員に告げた言葉として残されています。隼鷹は他の空母の艦載機を迎え入れながら何度も反復攻撃し、結果「ホーネット」は総員退艦ののちに雷撃処分(魚雷で撃沈処分)、「エンタープライズ」も戦闘不能となります。これによりアメリカ海軍は太平洋で稼働できる空母は一時ゼロの状態になってしまうのです。

これは角田覚治氏の逸話、武勇伝として語られていますが、私の感覚はちょっと違います。角田覚治氏は虎のようにただ力のみで押せ押せ!という猛者ではなく、空母の戦闘のセオリーを熟知し、冷静な判断で最善の方法をとったのだと思います。それは小沢治三郎氏が自軍の戦闘攻撃機の行動範囲が米軍のものより長い点を利用し立案した「アウトレンジ戦法」や先手必勝、時間との勝負である空母対空母の戦闘というもので何がいちばん大切なものかということをそのお人柄どおり真面目に向き合って実戦で生かしたからだと思います。また部下の方々を思う気持ちがあったからこそ信頼を得てなしとげられた勝利だと思うのです。

テニアンに逝く

その後、角田覚治氏は1943年(昭和18年)7月には第一航空艦隊司令長官となりますがこれは艦隊とは名ばかりで日本は空母を建造し、搭乗員を育成する時間も余裕もすでに失っている状況で、本土決戦がささやかれる時期となっていたためです。しかも戦況はさらに切迫し、1944年(昭和19年)2月、第一航空艦隊は角田覚治指令とともにマリアナ諸島テニアン島へ進出することになり、直後に米機動部隊によるマリアナ諸島空襲でその戦力はほぼ壊滅してしまうのです。その後6月のマリアナ沖海戦でも僅かな航空戦力は壊滅し、1944年(昭和19年)7月23日、米軍はテニアン島上陸を開始します。このとき角田覚治指令は最期を覚悟したのでしょう、軍令部には民間人を処決するという電文を送る一方、民間人には「あなた方は軍人ではないのですから玉砕しなければならないということはないのですよ」と言ったと伝えられています。角田覚治指令は7月31日、最後の通信を軍令部あてに送信したのち、一兵卒として手りゅう弾を持ち戦場に出て行方不明となってしまわれたそうです。こうして軍民あわせて約1万人という多数の犠牲を出してテニアン島の戦いは終わるのですが、この経過は他の書物やネットなどでも詳細がありますのでご参照いただきたいと思います。夏が近づくと終戦記念日とともにこのテニアン島の戦いにも思いをはせるのです。

隼鷹、解体され姿を消す

一方、空母隼鷹は終戦まで生き残ります。しかし輸送任務中に潜水艦によって魚雷攻撃を受け、右舷機関室が浸水、左舷エンジンのみで何とか佐世保港まで帰投します。その後船体は修復されますが、右舷機関室は修理されず、そのまま終戦を迎えます。機関が壊れた隼鷹は特別輸送任務(復員船)として使用されることはなく、また「橿原丸」として商船として復帰することもないまま1946年(昭和21年)6月、解体されることになるのです。「太平洋航路の女王」と呼ばれることを期待され、空前の豪華貨客船「橿原丸」として建造が始まり、結果として空母隼鷹として太平洋を北に、南に戦い続けることになったこの艦は当初の期待の豪華貨客船の姿を見ることなく消えてゆくこととなったのです。

これは祖父の思い出話

戦史やできごとは書籍やネットに詳細があり、祖父やその知人からのよく聞く伝聞が多くあまり意味はないかもしれませんが、いかにも提督然とした方が多い中でこの角田覚治氏は小沢治三郎氏とともにひときわ印象に残っていた方だったようです。祖父が呉鎮守府の中のどのような場所で、どのような場面でなど詳しいことは聞かされていないのですが、もっと詳しく聞いておけば祖父のことも戦時中の様子も残せたのかなと思います。空襲や機銃掃射などの怖い話もありますが、2016年のアニメ映画「この世界の片隅に」を見て「ああこんな感じだったのか」と思いました。いちばん泣けたのはまわりの方と違って、呉の空襲の記録がずらずらと並んで出るシーンでした。こんな中を祖父母は歩んできたのかと思うと涙が止まりませんでした。この記事に出てくる空母隼鷹と空母飛鷹もアニメで出てきて、祖父の話はほんとうにあったんだと改めて思いました。

今現在、小学生当時に作っていた空母や戦艦のプラモデルは引っ越しを繰り返したのでみな処分してしまいました。たくさんあったのですが大きくて置いておく場所がなかったのです。今でも1/700スケールのものでも壊れずに置いておくとなるとけっこう困りますね。その代わりと言っては何ですがゲームの「艦隊コレクション(艦これ)」はプレイしています。所属は祖父と同じ呉鎮守府です。もう7年も続けてるとは我ながら気が長いものです。戦艦や空母などが「女の子」になって登場しています。私が小学生の頃なら「こんなゲームって軍国主義を賛美するのか!」とか言われると思います。それどころかこの記事さえ軍人を美化するとはけしからん!と批判されたと思います。そんなことを気にする必要もなく軍人にだって普通の人と同じような優しい一面があったと書き残せるほうが平和になっていると私は思います。